ノーベル物理学賞について学びたいんだ

こんにちは。はじめまして。くるりんぱと申します。

現在物理学に興味があり、より多くのことを学ぶきっかけ、そしてモチベーションにしたいと思ってこのブログを始めることにしました。ブログ初心者で日本語も得意ではありませんが、楽しみながら続けたいと思います。

 

とりあえず現在考えている企画は、

  • これまでのノーベル物理学賞について学ぼう
  • 物理学が苦手な中高生向け解説記事
  • 自分が読んだ(学んだ)専門書の紹介

です。

 

もしこの記事を読んでくれる気になった優しい人がいましたら、ぜひともオススメの内容やテーマをリクエストしたり、コメントなどで自分の知識では足りない部分を補足したりしてくれると嬉しいです。

 

まだまだ未熟な立場で、自分の勉強もしっかりやっていかないといけないので、どのぐらいの更新頻度になるかはわからないけれど、これから楽しく続けて行けたらいいなと思っています。

 

初投稿はノーベル自身について

初投稿の今日は、挨拶がわりにノーベル自身について少し調べたことを紹介します。ちなみにオフィシャルサイトをリンクしておきます。英語ですが参考までに。

The official website of the Nobel Prize - NobelPrize.org

 

まず、ノーベル賞の名前の冠にもなっているノーベルさんは、なんとダイナマイトを作った人なのです。初めて知った時には驚きました。

だって大体こういう賞って、貴族とか王族が出すもんなのかなと思うじゃないですか。

公式ページのメニューバーにある "Alfred Nobel" を押すと、彼の生涯について知ることができます。もちろん、Wikipedia(アルフレッド・ノーベル - Wikipedia)も。

 

ここでは私が興味を持ったことだけを紹介するつもりなので、もっと詳しく知りたい方はリンク先も参考にしてみてください。

 

ノーベルの生涯

子供のころ

ノーベルは1833年の10月21日にスウェーデンストックホルムで生まれたそうです。17世紀の天才科学者オウラス・ルドベックの子孫だそうです。

 

生まれたその年に父親の事業が失敗してしまったそう。1837年にノーベルの父は単身ロシアのサンクトペテルブルクで事業を開始します。ロシア軍に装備を製造する機械や爆弾を提供していた・・・のかな?それが大成功して、1842年にアルフレッド・ノーベルを含む家族たちもロシアに引越しました。

 

その後は兄弟とともに家庭教師から自然科学分野を含む教育を受けていたそうです。特に驚いたことは、なんと17歳の時にはスウェーデン語、ロシア語、フランス語、英語、ドイツ語が話せた&書けたらしいですね。すごい・・・。

 

私なんて英語ですら読むのがやっとこさですよ。

しかもしょっちゅう意味を取り違えるし。

 

アルフレッド・ノーベルは化学や物理の他にも本当は文学や詩にも興味があったみたいですね。 しかし彼の父親は会社を手伝って欲しかった訳ですから、文学への興味を認めず、もっと化学を勉強してきなさいと17歳の彼を留学させたようです。

 

化学者の名前が冠しているにも関わらずノーベル賞文学賞があるというのはやはり少し不思議ではありましたが、単純に好きだったからだと考えると納得がいきます。

 

化学者の道へ

留学といってもノーベルは大学へ行くのではなく、自身の家庭教師の紹介でテオフィル=ジュール・ペルーズという化学者が設立したパリの化学研究所に行ったようです。爆薬に関する研究所だったようで、そこにはイタリア人化学者のアスカニオ・ソブレロも研究者として在籍していたそうです。一体誰だと思うかもしれませんが、このソブレロ氏、なんとニトログリセリンの発明者なのです!

 

ニトログリセリンと言えば爆薬の一種で、ダイナマイトの原料です。ソブレロはニトログリセリンは危険で取り扱い注意、実用化はできないと警告していました。それを後に爆薬として実用化させたのがノーベル、ということですね。

 

その後アメリカなどにも留学し、爆薬だけでなく機械の技術についても学んでいたそうです。爆薬をどのようにして制御・製造するかの参考にするためだったのかもしれません。

 

ちなみにアメリカではジョン・エリクソンの元にも行っていたそうです。ジョン・エリクソンはスクリュープロペラを用いた船を発明し、アメリカの海軍にも提供していたそうです。その技術をノーベルが学び、ロシアにいる父親の会社へと還元することを目的にしていたみたいですね。

 

2年間の遊学の後、ノーベルはロシアのサンクトペテルブルクにある父親の会社に戻り、学んできた知識を生かして働き始めたようですね。

 

その後クリミア戦争(1853-1856)が勃発し、ロシア軍が取引先だった会社は順調に成長していったそうです。しかしクリミア戦争終結すると、それまで順調だったノーベル家の会社の状況が一変し、会社が倒産してしまいます。彼は2人の兄達とともに工場を立て直そうと奮闘しますが、1863年に一足先に移動していた弟や両親のいるストックホルムに戻ることになりました。

 

ニトログリセリンとの出会い 

後のアメリカ特許訴訟でのノーベルの証言により、この時期に初めてニトログリセリンを知ったことがわかっています。彼自身がクリミア戦争の始まったころに初めてニトログリセリンをみた、と言っているのです。ソブレロ達がいた研究所へノーベルを紹介した家庭教師たちが、ノーベルと彼の父親にニトログリセリンの爆発性について見せ、うまく工夫すればその爆発を軍事目的に利用できるんじゃないかと助言したそうです。

 

その後ノーベルの父親は開発をはじめますが、クリミア戦争中には実用化させることができませんでした。

 

ノーベルはサンクトペテルブルクにいた頃からニトログリセリンの研究をしていましたが、ストックホルムに戻った後もこれを続けていたようです。1863年には雷管(Blasting Cap)と呼ばれるニトログリセリンの起爆装置を開発し、特許も取得しました。しかし、1864年の爆発事故をきっかけに、ストックホルム内での研究は禁止され、その後の実験はメーラル湖という大きな湖に船を浮かべて行ったそうです。

ちなみにこの時の事故で彼の弟も亡くなったそうです。

 

ノーベルは会社を作り、1865年からニトログリセリンの大規模な製造をはじめました。そしてついに1866年、ダイナマイトの開発に成功するのです。

 

雷管とダイナマイトは建設会社から非常に需要があり、ノーベルの会社はどんどん大きくなりました。 世界の20か国以上の約90か所に工場と研究所を設立し、ノーベル自身もあちこち行ったり来たりしていたようです。

 

またその後も爆発技術だけでなく様々な研究を続け、1896年に亡くなるまでに355件の特許を取得しているそうです。

 

ノーベル賞設立のきっかけ

ノーベルがノーベル賞を設立しようとしたきっかけの事件(?)は、彼の晩年にありました。これはとても有名な逸話ですが、実は"誤報"がきっかけだと言われているのです。

 

1988年にあるニュースが流れました。その見出しは「死の商人、死す」でした。これはアルフレッド・ノーベルの訃報を届ける記事でしたが、実際になくなったのはアルフレッド・ノーベルではなく、彼の兄でした。そのためノーベル自身がこの記事を見たのです。

 

どうして死の商人なんて言われていたのか。彼の発明したダイナマイトは道路を作るためだったり、建築の工事に使われるだけではなく、戦争にも使われており、その効果は絶大でした。彼の発明は多くの人の命を奪う手段となっていたのです。

これに大きくショックを受けたノーベルが、亡くなる際に遺言を残し、その遺言にノーベル賞設立の意志が記載されていました。ノーベルの遺言の日本語訳がこちらのホームページ:N-project  に記載されています。

 

ノーベルは多くの発明で莫大な富を築きながらも、子供はいなかったためにその資産をノーベル賞設立に充てました。自身の発明が世間からどのように思われているのかを客観的な視点から知り、科学の発展と平和な世界を願い、ノーベル賞を設立したのでしょう。

 

しかし、なぜ数学賞はないのでしょうか。これもまたいろいろ逸話があるようですが、またいつか機会があれば調べてみたいと思っています。